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<title>F1戦記</title>
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<description>Ｆ１ネタを個人的な思いなどふまえて書いてます。Ｆ１Ｍｏｎｏも紹介。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Tue, 18 Dec 2007 19:33:20 +0900</pubDate>
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<title>ジム・クラーク　フライング・スコット</title>
<description>フライング・スコット（天駆けるスコットランド人）の名を持ち、いまでもその名を知らない人はいないジム・クラーク。ジム・クラークはスコットランドの農家に末っ子として生まれ、草レース・チーム「ボーダー・リーヴァーズ」で活動しているところをロータスのコーリン・チャップマンに見出される。そしてそのまま１９６０年にロータスからF１するのだ。先に紹介したグラハム・ヒルとは良きライバルであり、当時のF1を代表するドライバーになっていく。１９６２年バスタブ型のモノコック構造を取り入れたロータス２５で、９戦中６回のポールポジションという偉業と、３度の優勝をみせ、グラハム・ヒルとチャンピオンを争いをする。翌１９６３年はなんと、１０戦中７回のポールポジションで、７勝をあげ、開幕戦モナコGP以外は全て表彰台という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝く。１９６４年はロータス３３の信頼性が低かったためリタイアを繰り返したが、それでもクラークはフェラーリのジョン・サーティース、BRMのヒルとチャンピオンを争っており、結果最終戦メキシコGPでも残り２周までトップを走り、２年連続チャンピオンはほぼ決定と思われたが、オイルパイプのトラブルでストップしてしまい、チャンピオンを逃している。このようにジム・クラークが早いのはマシンだけではなく、そのドライビングテクニックが優れていたためだろう。１９６５年はそんなジムの圧倒的な力を見せられるシーズンになる。開幕戦南アフリカGPから第７戦ドイツGPまで、すべて優勝をしている。（第２戦はインディ５００に出るため欠場）３戦を残してチャンピオンを獲得してしまい、しかもインディ500でも優勝をしてしまう。しかし人生には山あり、谷ありで１９６６年は不遇に終わる。わずか１勝のみであった。１９６７年ロータス49のデビューし、この年クラークは４勝をあげる。復調の兆しをみせたロータスとジム。ロ－タス４９を熟成させていくと、１９６８年いよいよチャンピオン奪回かと期待をされていた。開幕戦南アフリカGPに勝利して幸先の良いスタートをきったジムとロータスだったが、ドイツのホッケンハイムで開催されたF2レースに出場したジム・クラークは突然コースアウトして木に激突。そのまま帰らぬ人となってしまった。ジム・クラーク享年３２歳。ポールポジション通算33回は、アイルトン・セナ（65回）に破られるまでは歴代1位の記録で、典型的なナチュラル・ドライバーとして知られ、不調のマシンでも難なく乗りこなしてしまうため、メカニックに「彼がマシンに乗ると、セッティングが進まない」と言わしめるほど、その才能は高かったという。</description>
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<category>懐かしのドライバー達</category>
<pubDate>Thu, 20 Nov 2008 15:57:19 +0900</pubDate>

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<title>グラハム・ヒル　モナコマイスター</title>
<description>グラハム・ヒル、F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レースの「世界3大レース」を制した唯一のドライバー。特にモナコGPには滅法強く、5勝をあげ、　「モナコ・マイスター」と呼ばれていた。デイモン・ヒルの父親である。グラハム・ヒルはロンドンで生まれる。一時期はボート競技の選手であったため、ヘルメットに「オール」のマークをデザインするようになったそうだ。下積みのメカニック時代を経て、１９５８年にロータスからF1デビューを果たす。２年間在籍するが、特に目立った成績は残していない。そして１９６０年にBRMに移籍。ここでも当初は目立った成績を残していない。これだけ見ると普通のドライバーに見えますよね。しかし、人生どこで何があるかはわからないもので、１９６２年には開幕戦オランダGPでの初優勝を含む計４勝を挙げ、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめてしまう。その後もリッチー・ギンザーとの名コンビで活躍し、ロータスのジム・クラークと並び、当時のF1界の２大スタードライバーと呼ばれるようになり、１９６４年は最終戦までチャンピオン争いをし、ポイントリーダーのヒルはフェラーリのロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われるのだった。フェラーリが故意にぶつけたのではという報道に対し、ヒルは皮肉混じりに「わざとではない、ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」とコメントした。この辺もユーモアのある人だったようだ。１９６２年以降は毎シーズン２勝以上を挙げる活躍を見せるのだが、１９６６年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、６シーズンぶりの未勝利に終わる。ヒルは心機一転、成功を共にしたBRMを離れ、ロータスへと移籍をする。１９６７年のロータスは、クラークとヒルの豪華なジョイント・ナンバー・ワン体制となる。セナとプロストがマクラーレンンにいたときのような感じだ。今ならばハミルトンとライコネンが同じチームにいるといったものである。当時のロータスは完全にクラークを中心としたチーム作りを行っていた。このこともありヒルは完全にクラークの陰に隠れてしまう形となるが、ホントに人生は分からない。１９６８年にクラークがF２参戦中に事故死したのを受け、ヒルは自らの活躍で沈むチームスタッフを奮い立たせた。この年結果的に３勝を挙げ、６年ぶりに自身２度目のチャンピオンに輝く。しかし、１９６９年は新加入のヨッヘン・リントに速さで劣り、リントが初優勝したアメリカGPで自らは脚を骨折する重傷を負ってしまう。これがヒルの人生をまた大きく変える。１９７０年以降、かつての速さをとり戻すことはなかったヒルは、やがて、その熱意は自らのチームを立ち上げ、自ら運転する「オーナー・ドライバー」の夢へと向かうことになる。１９７３年にヒル(Embassy Racing With Graham Hill)を結成。当初はシャドウやローラからシャシーを購入して参戦したが、１９７５年の第５戦のモナコGPから自社製シャシーGH1で参戦。しかしその戦闘力は余りに低く、モナコGPで予選落ちを喫すると、ショックからかこれ以後は二度とマシンには乗らず、監督業に専念した。そしてシーズン終了後の11月、翌シーズン用マシンGH2のテストを終えた帰路、自ら操縦していた軽飛行機がゴルフ場に墜落。同乗していたチームのメンバーたちと共に帰らぬ人となった。何度かの大クラッシュを生き延び、18年間走り続けたドライバーの皮肉な最期だった。カルツォ 1/18 ロータス・フォード49 グラハム・ヒル/1968年 南アフリカGPカルツォ 1/18 ロータス・フォード49B グラハム・ヒル /1969年 アメリカGP</description>
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<category>懐かしのドライバー達</category>
<pubDate>Tue, 18 Nov 2008 22:11:24 +0900</pubDate>

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<title>伝説のドライバー　ジル・ヴィルヌーブ</title>
<description>Ｆ１を好きな人でなくても１度は聞いた事のある名前　ジル・ヴィルヌーブ。ファンを魅了したヴィルヌーブの走りは今でも伝説になっている。ジルは１９５０年年カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれる。青年時代はスノーモービルのチャンピオンを獲得したことのある異色な人なのだ。ジルは１９７３年から自動車レースを始める。フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになり、才能を覗かせていた。１９７７年ジェームス・ハントがゲストで走ったフォーミュラ・フォード。このときにハントはジルの走りに目をとめる。才能ある人間が、才能ある人間を理解するのには時間はかからない。ハントはマクラーレンにジルを推薦し、イギリスＧＰより参戦することになる。運命は不思議なもので、このときの走りを見たエンツォ・フェラーリに気に入られ、フェラーリがジルをスカウトするのだ。このときフェラーリにはニキ・ラウダがおり、その年の第１５戦アメリカ東ＧＰですでにチャンピオンを決めていた。しかし前年からのフェラーリとの確執により、ラウダはフェラーリを去ってしまうのだ。これにより空いたシートにジルは入り込むことになる。Ｆ１に参戦してわずか数戦でフェラーリのドライバーになることになったのだ。だが、思わぬ大惨事が待っていた。その年の最終戦　日本GP（富士スピードウェイ）において、序盤にティレルのロニー・ピーターソンと接触。ジル乗るフェラーリは宙高く舞い上がり、立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下するという大事故を起こす。マシンは大破したにもかかわらず、ジルは奇跡的に無傷だったが、観客と警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出す結果となったのだ。この結果、当時日本ではモータースポーツへの理解が低かったこともあり、ジルは過失致死の容疑で書類送検され、日本からの永久追放処分となる。そして日本からF1は消えてしまうのだ。その１０年後に鈴鹿サーキットにて復活するまで日本ではＦ１は見ることが出来なくなる。エンツォ・フェラーリは「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」とジルを擁護した。１９７８年この年からフェラーリでＦ１フル参戦を開始。しかし、第４戦アメリカ西GPでは首位独走中にクレイ・レガツォーニのシャドウに追突し大クラッシュ、再び物議を醸す。迎えた最終戦カナダGPでは、F1初勝利を飾り、地元モントリオールでの勝利にカナダ国民も祝福した。当初、新人の抜擢に懐疑的だったティフォシ達だったが、ジルの熱い走りに魅せられ、シーズン後にチームを放出されたのはエースドライバーのカルロス・ロイテマンの方だった。１９７９年はＦ１にも成れたせいであろう良い成績を残す。南アフリカGP、アメリカ西GP、アメリカGPと３勝を上げ、ランキングは２位。チャンピオンがチームメイトのジョディー・シェクターだったことを考えると、Ｎｏ２ドライバーとしては最高の仕事をしたことになるだろう。ティフォシ達もジルの走りに熱くなり、第8戦フランスGPでは、ルノーのルネ・アルヌーとラスト３周に、サイド・バイ・サイドの壮絶な２位争いを展開する。このデッドヒートは、現在でも「歴史に残る名バトル」として語り継がれているという。１９８０年は変わって不遇の年になる。これは決してジルのせいではない。むしろジルはよくやったほうで、チームメイトのシェクターは5位入賞1回のみで、ジルは入賞4回している。原因はマシンの設定不足だ。このせいもありシェクターはこの年をもって引退することになる。かわって１９８１年フェラーリはターボエンジンを載せ、王座奪還に目指すのだが、新車126CKは旧態なシャーシ設計が災いし、ジル曰く「真っ赤なとっても速いキャデラック」と称すほどの出来栄えだった。そんな中でもジルの激走により優勝２回を記録している。第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチ単位でコントロールする走りで予選2位。決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝を飾る。次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。また優勝ではないが、雨の中行われた第14戦地元カナダGPでは、レース途中で破損したフロントウィングがめくれ上がり、視界を遮られた状況での走行となる。ついにはノーズごと脱落しながらも、そのまま力走を続けて3位表彰台を獲得している。そして悪夢の１９８２年。フェラーリはデザイナーにハーベイ・ポスルスウェイトを向かえ、マシンを他チームと遜色ないデザインに仕上げる。ようやく戦える環境になったジルだったが、迎えた第5戦ベルギーGP、予選アタックへと飛び出していったジル。タイム更新ならず周回を続ける中、最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのRAMマーチに遭遇する。ジルの接近に気付き、レコードラインを譲ろうとしたマスと、マスを抜こうとラインを変えたジルは奇しくも同じ方向に移動してしまう。その直後、ジルの126C2は左フロントタイヤからマスに接触し、その右リアタイヤに乗り上げ時速230km/hに達し、空中を回転しながら舞うのだ。マシンは路面に激突して１５０mほど転がりながら大破していく。この時の衝撃でシートベルトが引きちぎれジルはマシンから投げ出される。そしてシートごとコース脇のフェンスに叩きつけられるのだ。現場や病院において蘇生処置が施されたが、頚椎その他を骨折したジルは結局その日の夜9時過ぎに死亡した。ジル・ヴィルヌーブ　３２歳であった。このときの影像は衝撃ＴＶが捉えたその瞬間などでなんども放映され見たことのある人も多いのではないだろうか。記録的に見れば「少し速いドライバー」レベルのものである。しかし、傑出した才能やクリーンな姿勢から「史上最高のF1レーサー」「記録より記憶に残るドライバー」と賞賛され、現在でも語られる機会の多いドライバー「ポールポジションからスタートしてそのまま優勝するより、最後尾からスタートして6位になるレースの方がいい」という発言も残しており、勝つことよりもレースすることを楽しんでいたのだろうレースを愛し、ファンに愛された男、ジル・ビルヌーブ。いまだその伝説は消えてはいない。ブログランキング参加中です！よければポチッッとしてやってください。マテル　1/43 フェラーリ F-1 126C ♯27 ジル・ビルヌーブ 1982 Ｐｒｉｃｅ4,914 円フォーミュラ・ヴィルヌーブ トリビュートDVD(DVD)Ｐｒｉｃｅ2,940 円ブルム製 1/43 フェラーリ 126C2 ターボ 1982 G.ヴィルヌーブＰｒｉｃｅ3,885 円</description>
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<category>懐かしのドライバー達</category>
<pubDate>Thu, 13 Nov 2008 11:59:13 +0900</pubDate>

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<title>初代フライングフィン　ケケ・ロズベルグ</title>
<description>初代となる「フライング・フィン」　ケケ・ロズベルグ。言わずと知れたニコ・ロズベルグのオヤジである。アクセル全開・カウンターステア一杯の豪快なドライビングを持ち味とした豪快なドライバーだった。市街地サーキットを得意としており、通算5勝のうち4勝を市街地サーキット（モナコ・ダラス・デトロイト・オーストラリア）で挙げている。１９７８年に第３戦南アフリカGPにて、セオドールからF1デビューする。この年はチームを渡り歩くことになり、セオドールで４戦を戦った後、第８戦スウェーデンGPからの３戦はATS、第１１戦西ドイツGPからの４戦はウルフ、第１５戦アメリカ東GPからの２戦はATSに戻って参戦した。しかしいずれのチームも戦闘力は低く、予選・決勝共に下位に沈み、予選落ち１回、予備予選落ち４回も喫している。翌１９７９年は前半戦にはシートを失っており、第８戦イギリスGPよりウルフから参戦することになる。そのレースでは９位で完走したが、その後はリタイヤ６回・予選落ち１回と全くダメダメであった。１９８０年にはフィッティパルディからの参戦となる。これまで同様、弱小チームからの参戦だったが、開幕戦アルゼンチンGPでは完走７台のサバイバルレースを生き残り、３位表彰台に輝く。しかし相も変わらず予選落ちを3度喫すなど、シーズンを通せば苦しい戦いを通した。翌１９８１年もフィッティパルディに残留したものの、完走は僅か３回のみ。チームの資金難もあって、リタイヤ6回・予選落ち5回と、前年以上に苦しいシーズンであった。そんなロズベルグに転機が訪れる。１９８２年は、当時の強豪チーム・ウィリアムズのエースだったアラン・ジョーンズが突如引退することとなり、代わってシートを獲得する。当時はターボ勢の全盛期であり、NAのウィリアムズは速さでターボ勢にかなわなかったものの、地道にポイントを積み重ねた。また、持ち前の豪快な走りも見せ、第１０戦イギリスGPでは初PPを獲得している。第１４戦スイスGPでは、ラスト３周でトップに立ち、そのまま初優勝を記録。これによりランキングトップに躍り出ると、そのままその座を守り、最終戦アメリカGPでチャンピオンが確定。シーズンをリードしていたディディエ・ピローニの負傷等に助けられる面もあったが、シーズン1勝でのチャンピオン獲得は、ロズベルグと１９５８年のマイク・ホーソンの二人のみ。１９８３年も変わらずターボ全盛は変わらず、ロズベルグはチャンピオン争いに絡むことはなかった。第5戦モナコGPでは、ウェット路面だが雨は止んでいるという状況の中、スリックタイヤを履いてレースに出場するギャンブルが成功、自身２勝目を挙げている。１９８４年は、ホンダエンジンで戦う。初期のホンダターボはアクセルへのレスポンスが悪く、世に言う「ドッカンターボ」。しかしロズベルグは、これを豪腕でねじ伏せるように走らせ、開発にも大きく貢献。１６戦中１０戦リタイヤという散々な成績であったが、第９戦ダラスGPでは優勝し、ホンダの第２期F1活動における初勝利をもたらした。１９８５年は、マシンバランスが馴染み始めたこともあり、６度フロントローに並ぶなど、予選ではほぼ毎戦上位グリッドに付ける。決勝でも２勝を記録。最終戦オーストラリアGPでの勝利により、ポイントでロータスのアイルトン・セナを逆転。アラン・プロスト、ミケーレ・アルボレートに次ぐランク３位でシーズンを終えた。しかし、チームメイトとなったナイジェル・マンセルの台等もあり、この年を最後にウィリアムズを去ることとなった。１９８６年は四強の一角であり、前年度のチャンピオンチームであるマクラーレンに移籍し、TAGポルシェエンジンを搭載するMP４/２をドライブする。しかし、前年までドライブしたホンダエンジンの競争力が上がったことなどから苦戦し、シーズン中の第１０戦西ドイツGPで引退を発表することになる。引退会見後に行われた予選では、PPを獲得し意地を見せた。引退レースとなった最終戦オーストラリアGPでは、序盤からトップを独走してライバルたちを翻弄、一時は３０秒近いリードを奪うが、右リアタイヤがバーストしてリタイアに終わる。マシンを降りた後、走り去るチームメイトのプロストに向かって親指を立てるシーンも話題となった。その後、タイトルに最も近い位置にいたマンセルにも同じトラブルが襲いリタイア、タイヤ交換のため緊急のピットインを行ったネルソン・ピケも後退、最終的にプロストが６ポイント差をひっくり返し逆転でタイトルを獲得した。引退後は多くのフィンランド人ドライバーをマネージメントしてきた。そして遂には自身の息子、ニコ・ロズベルグをＦ１ドライバーにまで仕立てている。ミニチャンプス1/43スケール　ウルフ　フォード　WR1　K.ロズベルグＰｒｉｃｅ4,900 円アマルガム1/8スケールウィリアムズ FW28 No.10/2006 ニコ・ロズベルグ/マーク・ウェバーＰｒｉｃｅ724,500 円Williams F1 TEAM Tシャツ 2008 ネイビー（チーム　スポンサー）Ｐｒｉｃｅ6,000 円</description>
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<category>懐かしのドライバー達</category>
<pubDate>Wed, 09 Jul 2008 17:14:52 +0900</pubDate>

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<title>アーバイン、F1はくだらないゲーム</title>
<description>かつてあのアイルトン・セナにゲンコツで殴られたことのある男、Ｅ．アーバイン。ジョーダンからＦ１デビューし、鈴鹿でのＳ字の２台抜きは今でも記憶に残る走りである。基本的に歯に衣着せぬ発言で周りをヒヤヒヤさせる存在だったが、一発の走りはあり個人的には大好きなドライバーだった。１９９６年からはフェラーリのドライバーとなり活躍をするものの、シューマッハのＮｏ２としての存在は大変だったようで、「いつかあいつがバナナの皮でずっこけて足でも折らないかと思ってたら、本当に骨折した」といったような発言もありミハエル・シューマッハ中心主義の体制に不満があったとのちに語っている。その後2000年からはジャガーに移籍するが、ジャガーはマシン開発が進まず思うような走りは出来なかった。２００２年には引退している。そんなアーバインがF1統轄団体であるFIAが、モータースポーツ最高峰のカテゴリーを“くだらないゲーム”にしてしまったと批判している。アーバインは闘牛と登山、モータースポーツだけがスポーツである――“他のすべてのものは単なるゲームにすぎない”という伝説的なアメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイの言葉を引用したが、こうも話す。「F1は自ら、そのゲームのひとつになろうとしているように見える」また、アーバインはFIAが推進するマシンのスピードを遅くし、安全性を高めようとする方針に賛同していない。 「今のF1はほとんど剣闘士の戦いではなくなっている」と述べたアーバインは、政治体制に影響を受けるFIAのさまを見て、「競技以外のところに重要な議題があるように思う。例えば、モナコ。あそこはドライバーがミスをするかしないかという究極のテストのようだった。今ではスイミングプールを変え、バリアを取り外してしまっている」と語っており、引退してもなお、痛烈にＦＩＡ批判をしているアーバインであった。M.シューマッハの王座奪還を賭け開発された1台。全てが手作りで、見る者すべてを魅了する最高峰のモデルです。～APOLE製 1/6 フェラーリ 248F1～</description>
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<category>懐かしのドライバー達</category>
<pubDate>Sat, 08 Mar 2008 11:21:48 +0900</pubDate>

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<title>荒法師マンセル</title>
<description>ナイジェル・マンセル 日本のＦ１ブームの絶世期にセナ、プロストとともに活躍したマンセル。古館曰く『荒法師マンセル』、その走りっぷり行動は、少年のようで多くのファンを魅了したドライバー。1980年に名門ロータスからF1にデビューするが、ロータス時代のマンセルは、後に暴れん坊といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる1984年のアメリカGP（ダラス）では、チェッカー目前で壁にタイヤを当ててミッションを壊してしまい、自らマシンを押してチェッカーを目指すが、途中で力尽きて気絶。結局、新人ドライバーＡ．セナにシートを奪われて１９８５年からはウィリアムズへ移籍する。その年のヨーロッパGPでようやく初優勝を果たす。翌1986年は一気にチャンピオン争いに加わるが、チームメイトのネルソン・ピケとの関係は険悪であり、このときも、最終戦オーストラリアGP時点でランキングトップ、チャンピオンをほぼ手中に収めていたが、決勝では左リアタイヤのバーストにより、リタイア。チャンピオンを逃している。1989年からは、フェラーリへ移籍するが、チームメイトのゲルハルト・ベルガー共々、リタイアが続く。1990年には突然の引退を表明、しかし、その後これを撤回して古巣ウイリアムズ復帰を決める。1991年、ウイリアムズに移るが、シーズン5勝をあげながら王座を逃すことになっている。記憶に残るＭｏｎａｃｏでもセナとのデッドヒートは歴史に残る名勝負として記憶に残っている。そして1992年、開幕5連勝を記録するなど連戦連勝、第11戦ハンガリーGPにおいて、2位に入り、遂に念願のワールドチャンピオンを手にすることになる。しかし、チャンピオンを手にしたにもかかわらず、2戦後、イタリアGPで引退会見インディへの移籍を発表した。1993年にはアメリカのCARTにニューマン・ハース・レーシングから参戦し、いきなりチャンピオンになるも契約トラブルでチームを離脱。１９９４年はスポット参戦でＦ１へ、最終戦オーストラリアGPではポール・トゥ・ウィンを飾りその力を発揮した。１９９５年はマクラーレンと契約するが駄々を捏ね、結局引退になる。1985年、ウィリアムズに移籍したマンセルの乗るマシンは、シーズン途中からカーナンバー5番が赤く塗られた。このクルマによって悲願のF1初優勝したことで、「赤い5番=レッド5」はマンセルのトレードマークとなったのだ。F1 LEGENDS「スーパーバトルヒストリー」 Price 3,990 円F1 レジェンド「F1 グランプリ 1987」 Price 4,392 円F1レジェンド ドライバーズアイズ '89-'90 Price 3,591 円ミニチャンプス 1/18 ウィリアムズ FW14 N.マンセル /ライドオン A.セナミニチャンプス 1/43 ウィリアムズ ホンダ FW11B No.5 N.マンセル 1987</description>
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<category>懐かしのドライバー達</category>
<pubDate>Fri, 08 Feb 2008 18:28:25 +0900</pubDate>

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