2008年11月13日

伝説のドライバー ジル・ヴィルヌーブ

F1を好きな人でなくても1度は聞いた事のある名前 ジル・ヴィルヌーブ
ファンを魅了したヴィルヌーブの走りは今でも伝説になっている。
ジルは1950年年カナダのケベック州モントリオールに程近いリシュリューで生まれる。

青年時代はスノーモービルのチャンピオンを獲得したことのある異色な人なのだ。

ジルは1973年から自動車レースを始める。
フォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになり、才能を覗かせていた。
1977年ジェームス・ハントがゲストで走ったフォーミュラ・フォード。
このときにハントはジルの走りに目をとめる。

才能ある人間が、才能ある人間を理解するのには時間はかからない。
ハントはマクラーレンにジルを推薦し、イギリスGPより参戦することになる。
運命は不思議なもので、このときの走りを見たエンツォ・フェラーリに気に入られ、フェラーリがジルをスカウトするのだ。

このときフェラーリにはニキ・ラウダがおり、その年の第15戦アメリカ東GPですでにチャンピオンを決めていた。
しかし前年からのフェラーリとの確執により、ラウダはフェラーリを去ってしまうのだ。
これにより空いたシートにジルは入り込むことになる。

F1に参戦してわずか数戦でフェラーリのドライバーになることになったのだ。
だが、思わぬ大惨事が待っていた。
その年の最終戦 日本GP(富士スピードウェイ)において、序盤にティレルのロニー・ピーターソンと接触。
ジル乗るフェラーリは宙高く舞い上がり、立ち入り禁止区域にいた観客らの中に落下するという大事故を起こす。
マシンは大破したにもかかわらず、ジルは奇跡的に無傷だったが、観客と警備員の計2名が死亡、計9名の重軽傷者を出す結果となったのだ。

この結果、当時日本ではモータースポーツへの理解が低かったこともあり、ジルは過失致死の容疑で書類送検され、日本からの永久追放処分となる。
そして日本からF1は消えてしまうのだ。
その10年後に鈴鹿サーキットにて復活するまで日本ではF1は見ることが出来なくなる。
エンツォ・フェラーリは「死亡事故は今までにもたくさんあった、これがF1レースの世界だ」とジルを擁護した。

1978年この年からフェラーリでF1フル参戦を開始。
しかし、第4戦アメリカ西GPでは首位独走中にクレイ・レガツォーニのシャドウに追突し大クラッシュ、再び物議を醸す。
迎えた最終戦カナダGPでは、F1初勝利を飾り、地元モントリオールでの勝利にカナダ国民も祝福した。
当初、新人の抜擢に懐疑的だったティフォシ達だったが、ジルの熱い走りに魅せられ、シーズン後にチームを放出されたのはエースドライバーのカルロス・ロイテマンの方だった。

1979年はF1にも成れたせいであろう良い成績を残す。
南アフリカGP、アメリカ西GP、アメリカGPと3勝を上げ、ランキングは2位。
チャンピオンがチームメイトのジョディー・シェクターだったことを考えると、No2ドライバーとしては最高の仕事をしたことになるだろう。
ティフォシ達もジルの走りに熱くなり、第8戦フランスGPでは、ルノーのルネ・アルヌーとラスト3周に、サイド・バイ・サイドの壮絶な2位争いを展開する。このデッドヒートは、現在でも「歴史に残る名バトル」として語り継がれているという。

1980年は変わって不遇の年になる。
これは決してジルのせいではない。むしろジルはよくやったほうで、チームメイトのシェクターは5位入賞1回のみで、ジルは入賞4回している。
原因はマシンの設定不足だ。
このせいもありシェクターはこの年をもって引退することになる。

かわって1981年フェラーリはターボエンジンを載せ、王座奪還に目指すのだが、新車126CKは旧態なシャーシ設計が災いし、ジル曰く「真っ赤なとっても速いキャデラック」と称すほどの出来栄えだった。
そんな中でもジルの激走により優勝2回を記録している。
第6戦モナコGPでは狭い市街地コースをドリフトしながら、ガードレールとの距離をセンチ単位でコントロールする走りで予選2位。決勝レースでもアラン・ジョーンズを終盤に抜き去り、優勝を飾る。次戦第7戦スペインGPでは後続の4台のマシンを巧みに抑えこみ、一列縦隊のまま先頭で逃げ切った。
また優勝ではないが、雨の中行われた第14戦地元カナダGPでは、レース途中で破損したフロントウィングがめくれ上がり、視界を遮られた状況での走行となる。ついにはノーズごと脱落しながらも、そのまま力走を続けて3位表彰台を獲得している。

そして悪夢の1982年。フェラーリはデザイナーにハーベイ・ポスルスウェイトを向かえ、マシンを他チームと遜色ないデザインに仕上げる。
ようやく戦える環境になったジルだったが、迎えた第5戦ベルギーGP、予選アタックへと飛び出していったジル。
タイム更新ならず周回を続ける中、最終コーナーのS字カーブでスロー走行中のヨッヘン・マスのRAMマーチに遭遇する。
ジルの接近に気付き、レコードラインを譲ろうとしたマスと、マスを抜こうとラインを変えたジルは奇しくも同じ方向に移動してしまう。
その直後、ジルの126C2は左フロントタイヤからマスに接触し、その右リアタイヤに乗り上げ時速230km/hに達し、空中を回転しながら舞うのだ。
マシンは路面に激突して150mほど転がりながら大破していく。この時の衝撃でシートベルトが引きちぎれジルはマシンから投げ出される。
そしてシートごとコース脇のフェンスに叩きつけられるのだ。
現場や病院において蘇生処置が施されたが、頚椎その他を骨折したジルは結局その日の夜9時過ぎに死亡した。
ジル・ヴィルヌーブ 32歳であった。

このときの影像は衝撃TVが捉えたその瞬間などでなんども放映され見たことのある人も多いのではないだろうか。
記録的に見れば「少し速いドライバー」レベルのものである。しかし、傑出した才能やクリーンな姿勢から「史上最高のF1レーサー」「記録より記憶に残るドライバー」と賞賛され、現在でも語られる機会の多いドライバー
「ポールポジションからスタートしてそのまま優勝するより、最後尾からスタートして6位になるレースの方がいい」という発言も残しており、勝つことよりもレースすることを楽しんでいたのだろう


レースを愛し、ファンに愛された男、ジル・ビルヌーブ
いまだその伝説は消えてはいない。

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