2008年07月09日

初代フライングフィン ケケ・ロズベルグ

初代となる「フライング・フィン」 ケケ・ロズベルグ
言わずと知れたニコ・ロズベルグのオヤジである。

アクセル全開・カウンターステア一杯の豪快なドライビングを持ち味とした豪快なドライバーだった。
市街地サーキットを得意としており、通算5勝のうち4勝を市街地サーキット(モナコ・ダラス・デトロイト・オーストラリア)で挙げている。

1978年に第3戦南アフリカGPにて、セオドールからF1デビューする。
この年はチームを渡り歩くことになり、セオドールで4戦を戦った後、第8戦スウェーデンGPからの3戦はATS、第11戦西ドイツGPからの4戦はウルフ、第15戦アメリカ東GPからの2戦はATSに戻って参戦した。
しかしいずれのチームも戦闘力は低く、予選・決勝共に下位に沈み、予選落ち1回、予備予選落ち4回も喫している。

翌1979年は前半戦にはシートを失っており、第8戦イギリスGPよりウルフから参戦することになる。
そのレースでは9位で完走したが、その後はリタイヤ6回・予選落ち1回と全くダメダメであった。

1980年にはフィッティパルディからの参戦となる。
これまで同様、弱小チームからの参戦だったが、開幕戦アルゼンチンGPでは完走7台のサバイバルレースを生き残り、3位表彰台に輝く。
しかし相も変わらず予選落ちを3度喫すなど、シーズンを通せば苦しい戦いを通した。

翌1981年もフィッティパルディに残留したものの、完走は僅か3回のみ。
チームの資金難もあって、リタイヤ6回・予選落ち5回と、前年以上に苦しいシーズンであった。

そんなロズベルグに転機が訪れる。
1982年は、当時の強豪チーム・ウィリアムズのエースだったアラン・ジョーンズが突如引退することとなり、代わってシートを獲得する。
当時はターボ勢の全盛期であり、NAのウィリアムズは速さでターボ勢にかなわなかったものの、地道にポイントを積み重ねた。また、持ち前の豪快な走りも見せ、第10戦イギリスGPでは初PPを獲得している。

第14戦スイスGPでは、ラスト3周でトップに立ち、そのまま初優勝を記録。
これによりランキングトップに躍り出ると、そのままその座を守り、最終戦アメリカGPでチャンピオンが確定。

シーズンをリードしていたディディエ・ピローニの負傷等に助けられる面もあったが、シーズン1勝でのチャンピオン獲得は、ロズベルグと1958年のマイク・ホーソンの二人のみ。

1983年も変わらずターボ全盛は変わらず、ロズベルグはチャンピオン争いに絡むことはなかった。
第5戦モナコGPでは、ウェット路面だが雨は止んでいるという状況の中、スリックタイヤを履いてレースに出場するギャンブルが成功、自身2勝目を挙げている。

1984年は、ホンダエンジンで戦う。
初期のホンダターボはアクセルへのレスポンスが悪く、世に言う「ドッカンターボ」。
しかしロズベルグは、これを豪腕でねじ伏せるように走らせ、開発にも大きく貢献。

16戦中10戦リタイヤという散々な成績であったが、第9戦ダラスGPでは優勝し、ホンダの第2期F1活動における初勝利をもたらした。

1985年は、マシンバランスが馴染み始めたこともあり、6度フロントローに並ぶなど、予選ではほぼ毎戦上位グリッドに付ける。
決勝でも2勝を記録。
最終戦オーストラリアGPでの勝利により、ポイントでロータスのアイルトン・セナを逆転。アラン・プロスト、ミケーレ・アルボレートに次ぐランク3位でシーズンを終えた。

しかし、チームメイトとなったナイジェル・マンセルの台等もあり、この年を最後にウィリアムズを去ることとなった。

1986年は四強の一角であり、前年度のチャンピオンチームであるマクラーレンに移籍し、TAGポルシェエンジンを搭載するMP4/2をドライブする。
しかし、前年までドライブしたホンダエンジンの競争力が上がったことなどから苦戦し、シーズン中の第10戦西ドイツGPで引退を発表することになる。
引退会見後に行われた予選では、PPを獲得し意地を見せた。

引退レースとなった最終戦オーストラリアGPでは、序盤からトップを独走してライバルたちを翻弄、一時は30秒近いリードを奪うが、右リアタイヤがバーストしてリタイアに終わる。
マシンを降りた後、走り去るチームメイトのプロストに向かって親指を立てるシーンも話題となった。
その後、タイトルに最も近い位置にいたマンセルにも同じトラブルが襲いリタイア、タイヤ交換のため緊急のピットインを行ったネルソン・ピケも後退、最終的にプロストが6ポイント差をひっくり返し逆転でタイトルを獲得した。


引退後は多くのフィンランド人ドライバーをマネージメントしてきた。
そして遂には自身の息子、ニコ・ロズベルグをF1ドライバーにまで仕立てている。


ミニチャンプス1/43スケール ウルフ フォード WR1 K.ロズベルグPrice4,900 円
アマルガム1/8スケールウィリアムズ FW28 No.10/2006 ニコ・ロズベルグ/マーク・ウェバーPrice724,500 円
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Posted by 左近将監 at 17:14Comments(0)TrackBack(0)懐かしのドライバー達

2008年03月08日

アーバイン、F1はくだらないゲーム

かつてあのアイルトン・セナにゲンコツで殴られたことのある男、E.アーバイン

ジョーダンからF1デビューし、鈴鹿でのS字の2台抜きは今でも記憶に残る走りである。
基本的に歯に衣着せぬ発言で周りをヒヤヒヤさせる存在だったが、一発の走りはあり個人的には大好きなドライバーだった。

1996年からはフェラーリのドライバーとなり活躍をするものの、シューマッハのNo2としての存在は大変だったようで、「いつかあいつがバナナの皮でずっこけて足でも折らないかと思ってたら、本当に骨折した」といったような発言もありミハエル・シューマッハ中心主義の体制に不満があったとのちに語っている。

その後2000年からはジャガーに移籍するが、ジャガーはマシン開発が進まず思うような走りは出来なかった。
2002年には引退している。

そんなアーバインがF1統轄団体であるFIAが、モータースポーツ最高峰のカテゴリーを“くだらないゲーム”にしてしまったと批判している。

アーバインは闘牛と登山、モータースポーツだけがスポーツである――“他のすべてのものは単なるゲームにすぎない”という伝説的なアメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイの言葉を引用したが、こうも話す。

「F1は自ら、そのゲームのひとつになろうとしているように見える」

また、アーバインはFIAが推進するマシンのスピードを遅くし、安全性を高めようとする方針に賛同していない。

「今のF1はほとんど剣闘士の戦いではなくなっている」と述べたアーバインは、政治体制に影響を受けるFIAのさまを見て、「競技以外のところに重要な議題があるように思う。例えば、モナコ。あそこはドライバーがミスをするかしないかという究極のテストのようだった。今ではスイミングプールを変え、バリアを取り外してしまっている」と語っており、引退してもなお、痛烈にFIA批判をしているアーバインであった。face02


M.シューマッハの王座奪還を賭け開発された1台。

全てが手作りで、見る者すべてを魅了する最高峰のモデルです。

~APOLE製 1/6 フェラーリ 248F1~





  

Posted by 左近将監 at 11:21Comments(0)TrackBack(0)懐かしのドライバー達

2008年02月08日

荒法師マンセル

ナイジェル・マンセル

日本のF1ブームの絶世期にセナ、プロストとともに活躍したマンセル

古館曰く『荒法師マンセル』、その走りっぷり行動は、少年のようで多くのファンを魅了したドライバー。


1980年に名門ロータスからF1にデビューするが、ロータス時代のマンセルは、後に暴れん坊といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる
1984年のアメリカGP(ダラス)では、チェッカー目前で壁にタイヤを当ててミッションを壊してしまい、自らマシンを押してチェッカーを目指すが、途中で力尽きて気絶。

結局、新人ドライバーA.セナにシートを奪われて1985年からはウィリアムズへ移籍する。

その年のヨーロッパGPでようやく初優勝を果たす。
1986年は一気にチャンピオン争いに加わるが、チームメイトのネルソン・ピケとの関係は険悪であり、このときも、最終戦オーストラリアGP時点でランキングトップ、チャンピオンをほぼ手中に収めていたが、決勝では左リアタイヤのバーストにより、リタイア。チャンピオンを逃している。

1989年からは、フェラーリへ移籍するが、チームメイトのゲルハルト・ベルガー共々、リタイアが続く。
1990年には突然の引退を表明、しかし、その後これを撤回して古巣ウイリアムズ復帰を決める。
1991年、ウイリアムズに移るが、シーズン5勝をあげながら王座を逃すことになっている。
記憶に残るMonacoでもセナとのデッドヒートは歴史に残る名勝負として記憶に残っている。

そして1992年、開幕5連勝を記録するなど連戦連勝、第11戦ハンガリーGPにおいて、2位に入り、遂に念願のワールドチャンピオンを手にすることになる。

しかし、チャンピオンを手にしたにもかかわらず、2戦後、イタリアGPで引退会見インディへの移籍を発表した。

1993年にはアメリカのCARTにニューマン・ハース・レーシングから参戦し、いきなりチャンピオンになるも契約トラブルでチームを離脱。

1994年はスポット参戦でF1へ、最終戦オーストラリアGPではポール・トゥ・ウィンを飾りその力を発揮した。
1995年はマクラーレンと契約するが駄々を捏ね、結局引退になる。

1985年、ウィリアムズに移籍したマンセルの乗るマシンは、シーズン途中からカーナンバー5番が赤く塗られた。このクルマによって悲願のF1初優勝したことで、「赤い5番=レッド5」はマンセルのトレードマークとなったのだ。




F1 LEGENDS「スーパーバトルヒストリー」 Price 3,990 円
F1 レジェンド「F1 グランプリ 1987」 Price 4,392 円
F1レジェンド ドライバーズアイズ '89-'90 Price 3,591 円



ミニチャンプス 1/18 ウィリアムズ FW14 N.マンセル /ライドオン A.セナ
ミニチャンプス 1/43 ウィリアムズ ホンダ FW11B No.5 N.マンセル 1987




  

Posted by 左近将監 at 18:28Comments(0)TrackBack(0)懐かしのドライバー達